「funny!」から読み解く、映画『OFUKU』の魅力

「『OFUKU』のショートフィルムがカンヌ国際映画祭とか海外で評価されて、チェルシー映画祭ではBEST ACTRESS賞まで受賞しているらしいよ!」

 そんな興奮気味のメッセージと一緒に古くからの「知り合い」がAmazonプライム・ビデオのリンク先をLINEで送ってきたので、早速、視聴した。

現在、Amazonで公開されているフィルムはOFUKU -the movie-、OFUKU2-mother-、OFUKU3-lose way-、OFUKU4-separation-の4作品。

 

同シリーズはすでに5作目まで制作済みで、さらに1年に1本のペースで制作し続け、20話で完結の予定だという。思わず、「目指すは寅さん?」と笑ってしまったが、なかなかどうして、OFUKU人気は侮れない。

 

2019年11月にワシントンDCで行われた上映会の後、OFUKUの撮影クルーはマサチューセッツ工科大学(MIT)で開かれる、ニューヨーク日本映画祭とMIT、それにボストンの団体共催による上映会に「特別ゲスト」として招聘されるほど、人気者になっていたからだ。

 

 

上映会当日はMITの学生や同大学の教師、同じボストンにあるハーバード大学の教授や学生が詰めかけ、上映後の対談では会場は終始笑いの渦に包まれた。iphone片手に、「funny!」と笑いながらまるで「福-fortune」のお裾分けを楽しむように、写メを撮りまくる人も少なくなかった。

 

映画を観た人からの感想では「非常にオリジナルなものを感じる」という言葉と、「OFUKUはファニー!」というコメントがとても印象的だった。

 

「funny!」とは「変/おもしろい/滑稽」の意味だが、映画『OFKU』の魅力を一言で表すなら、まさしく「funny!」だろう。

 

映画のストーリーは360年以上前の江戸時代から現代日本にタイムスリップしてきたOFUKUが、亡き母の面影を求めて日本を旅するというもの。

 

 

OFUKUが旅の途中で出会う風景、人、季節の移ろいなど「まるで豪華な絵巻を見ているようだ」と称賛する人もいたくらい、目に映る全てが美しい。だが、その美しさは単に予定調和にとどまらない。瀬戸内寂聴先生ではないが、「美は乱調にあり」のごとく、綻びあり、おかしみあり。時にハチャメチャな展開もあって、ひとたび観だすと、引き込まれ、最後まで目が離せない。

 

 

OFUKUは亡き母の面影を探しているが、話中でOFUKUが出会う人物もまた、目に見えない何かを探していたり、何かの面影を背負っていたりする。

とみこ(1話)は借金取りに追われていたし、金の亡者であった宮島(2話)は気象予報士になるべく模索していたし、キラリ(3話)は声を失うほど落ち込んでいたし、アユコ(4話)は重病の母のことで悩んでいた。どの人も失意のどん底にいたり、あるいは悩んでいたりする。そこへ「福を呼ぶ人」、OFUKUが現れ、持ち前のアゲアゲパワーでみんなを元気に笑顔にしていく、というのが毎度の展開。あらすじを書いてしまえば、いたってシンプルだが、わずか15分の間についついOFUKUに魅了されてしまう。なぜだろう。

それはきっと、OFUKU独特の「間合い」がなせる業なのではないか、そんな気がした。

 

 

OFUKUの起源はアメノウズメにあるという。スサノヲの乱暴を怖れ、天の岩屋にこもったアマテラスを招き出すため、暗闇の中、歌い踊り、神々の笑いを誘った、あのアメノウズメだ。アメノウズメは単に、面白おかしく、神々をたのしませ、よろこばせたわけではない。注目したいのはむしろ八百万の神々の、冷笑や嘲笑をも受け止めた上で、鮮やかな歓喜の大笑いをもたらしたということ。

 

 

 

マサチューセッツ工科大学の学生を前に、「笑われて、なんぼ!」とOFUKUは自らを笑っていたが、映画の中のOFUKUの「おかしみ」にはどこか「かなしみ」がつきまとう。

 

亡き母への慕情だけにとどまらない、憂いの様なもの。言葉にするのは難しいけれど、底知れない「かなしみ」をも感じさせる。もしかしたら、それは、人生の酸いも甘いも知った上ではじめて醸しだすことのできる、「悲しくて、やがておかしい」境地をOFUKU自身が味わってきたからかもしれない。「funny!」という言葉にも、どこか、かなしみとおかしみが共存しているような響きがある。

 

この喩えようのない「おかしみ」こそ、OFUKUの真骨頂なのだろう。トリックスターとしての宿命を受け止めてこそ光る「滑稽さ」とでもいうような、「おかしみ」。だから、チャーミングなのだ。

 

 

さらに見逃せないのは主人公OFUKUの物語とOFUKUに扮する長谷川高士の人生が映画の中で交差している点だ。長谷川自身も6歳で実母を失くしている。映画の中ではOFUKUの「知り合い」として長谷川自身のエピソードが挿入されている場面もあり、どこまでがドキュメンタリーで、どこからがフィクションなのか。その境界線がわからない面白さがある。

 

そもそも、この映画の主人公OFUKUというキャラクターの誕生秘話からして実に「funny=変!」なのだ。

 

OFUKUとはハセガワエスティ会長・長谷川高士が扮する笑顔と幸福を招く女形キャラ。若くして家業(老舗家具店)を継いだ長谷川はバブル崩壊後、一気に20億円もの借金を背負ってしまう。「もう死ぬしかない」とやる気も気力も失くし、でも死ぬ勇気もない。そんなある日、「もうどうとでもなれ」と家にあったカツラをかぶり、顔に白粉で塗り、和装して銀座に出かけたのが全てのはじまりだったとか。失意のどん底にいるからといって、普通、白塗りの顔で銀座に出かけたりするだろうか? これは映画の中のフィクションではなく、現実というのだから、面白い。これには続きがある。

 

我が身に降りかかる不運を笑い飛ばしたかったはずの本人が、逆にOFUKUは「福を運ぶ人」と人々から喜ばれ、求められ、OFUKUというキャラクターがしだいに独り歩きするまでになっていく。と同時に、長谷川の人生もすべてが好転した。

 

いまでは年間1万組を超えるウエディングを手掛け、業界に新風を巻き起こす実業家として、また司会を任せれば最高のエンターテナーとして、国内外の

セレブリティから注目されるまでになった。このあたりのシンデレラ(?)ストーリーが今後どう映画に反映されるのか、楽しみだ。

 

最後に。人様に「笑われる」ことで活路を見出したOFUKUがアメノウズメならば、もうひとり忘れてはならない人物がいる。映画『OFUKU』の脚本・演出・監督を務める、阿久津五代子だ。阿久津はさながら思兼(おもひかね)神だろう。

アマテラスを天の岩屋から出そうと知恵をしぼり、アメノウズメをキャスティングし、その準備のために陰ながら奔走していた敏腕プロデューサーである。

 

実は阿久津と長谷川は実は元夫婦の間柄。子どもにも恵まれたが、結婚5年後に離婚している。とはいえ、いまなおビジネスパートナーとして、タッグを組み続けているばかりか、再婚後も互いに新しい家族と家族ぐるみのつきあいをしているというのだから、素晴らしい。世の中の「夫婦はこうあるべき」の常識を覆し、まさに「新しい家族の形」を実践しているふたりなのだ。

 

 

映画『OFUKU』は社会のさまざまな呪縛からあくまでも自由なふたりにとっての残りの生涯を賭けたライフワーク。阿久津がそのライフワークにふさわしいテーマとして選んだのが、「母」だった。誰しも母から生まれてくる。どんなにリベラルな人であっても、この普遍的な事実からは逃れられない。「母はいい意味でも、悪い意味でも万人にとっての呪縛」だと阿久津は語る。完結編となる20話までこの「母」というテーマは貫かれる予定だとか。

 

映画の脚本・演出・監督を一人で手掛けている阿久津だが、役者の「演じている感」を嫌うため、映画収録現場はリハーサル一切なしのぶっつけ本場も少なくないそうだ。特に、OFUKUその人が台詞を覚えてこないこともあり、アドリブも多いらしい。

 

 

ちなみにアドリブとは、即興と翻訳されることが多いが、もともとの語源はラテン語で「あなたの望むままに」「自分自身のよろこび」など自由意志を意味する言葉だという。

 

「強く願う。そうすれば、そうなる!」確か、映画にもOFUKUのそんな台詞があったが、それこそが幸福への近道になることは、映画を観れば、きっと腑に落ちるはず。お正月休みに、開運のためにも、ぜひ一度、ご覧あれ。

 

(文/砂塚美穂)